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パルムドールとパルム泥 是枝監督と日本政府 [アベラ国]


『万引き家族』(仏語訳では”Une affaire de famille”「家族の問題」)が
カンヌ映画祭の金賞「パルム・ドール」Palme d'or (黄金のシダ)を受賞。
しかし日本政府にとっては「パルム・ドール」ならぬ
「パルム泥」となってしまった。

フランスのル・フィガロ紙はこう書いた:

是枝裕和監督がカンヌ映画祭の権威ある賞をもらったというのに、いつもなら外国で賞をもらう日本人に賛辞を惜しまぬ日本の首相も、今回はだんまりを決め込んだ。それもそのはず。是枝監督、映画の中でも、インタビューでも、日本の政策を散々こきおろしているからだ。

政府からのお祝いを辞退ということ自体が快挙
是枝監督、文科相の祝意を辞退 「公権力とは距離保つ」
朝日新聞
https://www.asahi.com/articles/ASL68677QL68UCVL025.html

安倍首相がノーベル平和賞に輝いた「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」に祝意を示さなかったことをあげた神本美恵子議員(立憲民主党):「好きな人だけお祝いをするのはいかがなものかと思う」

林芳正文科相:「大変いいアイデアをいただいた。来ていただけるかどうかわからないが、お呼びかけはしたい」

是枝裕和監督:「映画がかつて、『国益』や『国策』と一体化し、大きな不幸を招いた過去の反省に立つならば、大げさなようですがこのような『平時』においても公権力(それが保守でもリベラルでも)とは潔く距離を保つというのが正しい振る舞いなのではないかと考えています」


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再び 仏 ル・フィガロ紙:

日本政府が、外国で権威ある賞を受賞した日本人に賛辞を惜しむということはあまりない。2016年のノーベル医学賞、大隈由規にも、翌年のノーベル文学賞、カズオ・イシグロ、さらには平昌オリンピックで金メダルを手にした日本選手にまで、皆、祝辞を直に送っている安倍晋三首相である。

しかし、第71回カンヌ映画祭のパルム・ドールに輝いた是枝裕和は例外だった。それも頷ける。彼の『家族の問題(万引き家族)』は保守的な現政権に対して非常に批判的なのだ。是枝監督、この陽の昇る国のとりわけ文化政策には、これまでも歯に絹を着せないところがあった。

国家の問題?

「ドラマなき社会ドラマ」是枝の13作目の映画は「日本社会の崩壊に立ち向かう最後の砦」(フランソワ・オベル/フィガロ文化部)。それは「誰も知らない」の監督にとって日本社会の変貌を家族というプリズムを通じて観察するための手段。そして安倍首相の自民党政権による政策を糾弾する手段であった。「富裕層と貧困層の格差が広がる一方です。貧しい人たちがいくら働いてもです」と数日前の是枝監督。

2018年カンヌ映画祭・金賞に輝く是枝監督と家族

「この父にしてこの子(邦題『そして父になる』)」の監督はすでに国の指導者に噛み付いている。「”第7の芸術” 映画を馬鹿にしている」と言うのだ。是枝監督は、日本から芸術としての映画が消えてしまうのではないかと危惧し、文化を再び国民的議論の中心に呼び戻すべきだと言っている。彼によれば安倍首相の文化政策は商業映画を優先するもので、独立系の映画が冷や飯を食わされている。輸出することばかりに頭が行き、考えが足りないと是枝監督だ。「日本では、文化が、国にどれだけ利益をもたらすかということでしか考えられていない」彼は東京国際映画祭の開会時にこう首相を批判した。「そういった考え方は、映画に対しても、オリンピックに対しても、同じです。でも、そういった考え方は間違っているとはっきり言わなくてはならない」。

日曜日、金賞受賞を受けて日本の新聞各紙は大きな紙面をさいて是枝監督について伝えたが、首相やその周辺からは一言も発せられない。月曜日、記者会見で記者に聞かれて初めて政府のスポークスマンが「心からお祝い申し上げる」と答えたが、その言葉はまるでひどい虫歯を口から引き抜くかのようにして漏れてきたものであった。

これだ



韓国の中央日報もインタビューを掲載した。
 「初めて来た時は30代だったのに、いつの間にか50代になりました。カンヌに来るたびに今でもワクワクします」

  第71回カンヌ映画祭が中盤に差し掛かった15日(現地時間)、現地のホテルで会った是枝裕和監督(56)の言葉だ。2001年映画『DISTANCE』でカンヌを初めて訪れた次世代監督はいつのまにか日本を代表する巨匠になった。パルム・ドール賞候補であるカンヌ映画祭コンペティション部門への正式出品は今回だけで5度目になる。

  新作『万引き家族』は、この日まで公開されたコンペティション部門11本(全体21本)の中で最高の評価を受けている。英字メディア「Screen Daily(スクリーンデイリー)」の星取表(jury grid)では平均3.2点(4点満点)をつけ、フランスのジャン・リュック・ゴダール(3点)や中国のジャ・ジャンクー(2.9点)らを抜いている。また、別のメディア「Variety(バラエティー)」は「さらに成熟し、心を盗む家族映画復帰作」と好評した。公式上映では8分余りのスタンディングオベーションとともに涙を拭う観客も多く見られた。

  映画は、初枝(樹木希林扮)の年金と万引きで生計を立てている家族が、寒さに震えていた幼い少女(佐々木みゆ扮)を家に連れてきたことから始まる物語を描いている。今にも崩れそうな狭い家で築いた仲睦まじい彼らの日常に突然の危機が襲う。是枝監督は、5年前のカンヌ国際映画祭審査員賞作『そして父になる』(2013年)で投げかけた問いをもう一度取り上げた。家族を家族たらしめているのは血か、一緒に送った時間か--。ここに共同体が崩壊した日本社会の現実を重ねた。

  --物語の着眼となった契機は。

  「数年前に、日本では亡くなった親の年金を受け取るために死亡届を出さない詐欺事件が社会的に大きな怒りを買った。はるかに深刻な犯罪も多いのに、人々はなぜこのような軽犯罪にそこまで怒ったのか、深く考えることになった」

  --血の混ざらない家族について描いている。

  「日本では今も家族は『血縁』というイメージが固定化されている。特に、2011年大地震以降、このような家族の絆を大げさに強調する雰囲気について疑問を感じていた。国際的な状況もある。カンヌで会った多くの人々が、私に『私は里子なんだ』『私には養子がいる』と打ち明ける」

  --主人公は社会のセーフティネットから疎外されている。

  「日本は経済不況で階層間の両極化が進んだ。政府は貧困層を助ける代わりに失敗者として烙印を押し、貧困を個人の責任として処理している。映画の中の家族がその代表的な例だ」

  --経済不況が日本をどのように変えたか。

  「共同体文化が崩壊して家族が崩壊している。多様性を受け入れるほど成熟しておらず、ますます地域主義に傾倒していって、残ったのは国粋主義だけだった。日本が歴史を認めない根っこがここにある。アジア近隣諸国に申し訳ない気持ちだ。日本もドイツのように謝らなければならない。だが、同じ政権がずっと執権することによって私たちは多くの希望を失っている」

  --前作と同じく、父子関係が印象的だ。

  「映画で少年の祥太(城桧吏扮)は父(リリー・フランキー扮)と呼んでいた人がそれほど信じられないことに気づく。私の父は典型的な会社員だったが、私にも似たような感情があった。親に対する確固たる印象が崩れる瞬間、大人になるのだということを言いたかった」

  --本当の家族とは。

  「決まった答えも定義もない。だが、この映画に関していうなら、永遠に一緒にいられなくても、共に過ごした時間がそれぞれの人生の中に深く刻印されること、それ自体が家族なのではないかと思う」

  --次の映画はフランス女優ジュリエット・ビノシュやカトリーヌ・ドヌーブと撮影すると聞いた。

  「まだ公式発表前の『うわさ』だ(笑)。韓国にも一緒に映画を撮ってみたい俳優がいて、韓国やフランスの中でさまざまな可能性をめぐり悩んでいる」

  今年のカンヌ映画祭は19日まで続く。コンペティション部門受賞作は同日閉幕式で発表される。

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是枝監督 ↑ 「齟齬」「誤読」、政治性、共同体について 書いている。

「ネットで切り取られた言葉が拡散されていくプロセスで生じる齟齬(意図的なのかどうかわからないが)のほうがよっぽど酷い」と書いている是枝監督だが、(あえてその多少の危険をここでも犯しながら)断章にして伝えると以下のとおり(全文は上のサイトでお読みください)。

まず色々な「齟齬」があるという。

たとえば、受賞後の談話で触れた「二人の監督」のことをイ・チャンドンとジャ・ジャンクーと書いた記事は「誤読」で、実はキリル・セレブレンニコフとジャファール・パナヒのことだった。

通訳・翻訳で言えば
通訳者によっては「僕の言葉が少し(監督らしく)盛られて伝わっている印象」「やや、こそばゆい」のだそうだ。

「血が混じる」:
「ひとつの記事は「血が混ざってこそ家族なのか、日本の家族は崩壊したが…」という見出しだった。「血が混ざって」という表現が一瞬理解出来なかったのだが、「あぁ『血縁』のことだな」とすぐに合点がいった。確かに「血ではないものでつながった家族を描いてみたかった」という趣旨の話はしたからだ。ただしかし、この僕の「血縁」という日本語が→英語になり→それを聞いた記者(もちろん英語が母国語ではない)が韓国語に訳し→それがもう一度日本語になる。という伝言ゲームのようなプロセスを繞ると、これだけニュアンスが変わるのだということに改めて驚かされた。読み進めていくとこの記事の中には他にもいくつか首を傾げざるを得ない表現が散見された。例えば、僕は自分が描く対象を「代表的な例だ」とは決して言わない。…」

「誤読」:

告発

「…作品の背景としての社会的、政治的状況を聞かれた。その告発を目的とした映画ではないことを前提に自分の考えを述べた。あくまで私見としてではあるが。今回僕が話したのは「共同体」の変化について、であった。…」

謝罪、補償
「…「謝罪」という単話は明らかにその翻訳のプロセスで後から加わったものだろうと思う。「補償」というのが僕の口にした言葉の何の翻訳なのかは、正直良くわからない。民主主義が成熟していく為には、僕は定期的な政権交代が必要だと考える人間のひとりである。何故なら権力は必ず腐敗するからである。それは映画監督という「権力」を手にして痛感していることでもある。目くそと鼻くそでも、交代させながら主権者である私たちが権力をコントロールしていくことによって民主主義は少しずつ熟度を増していくだろうと思っている。その政府が保守だろうがリベラルだろうが政権が変わらないと思ったら皆がその権力を忖度し、志のないジャーナリズムはチェックを忘れ広報化する。それは主権者にとっては不幸だという話をした。まぁこれは余談の部類。そのような説明が短くまとめられた時に色々省略されて (安倍政権が続いて私たちは不幸になった)というやけに単純化されたものになっていた。正直驚いた。」

「もうひとつ韓国紙の記事…見出しは「壊れた家族にこだわる理由とは」というもの。「壊れた」という言葉のオリジナルは恐らく「欠損」だろうと思う。これはそれ程遠くはない。記事を読み進めていくと、これは納得の翻訳と構成でとても囲み取材をまとめたとは思えないクオリティーだった。何より印象に残ったのは「映画が絶望と痛みという井戸から汲み上げられるものならば、私はその井戸を家族に求めている」という一文。素晴らしく文学的な表現なのだが実は僕は全くこんなことは話していない。家族を井戸に例えるというような比喩がそもそも僕の中に教養としてもボキャブラリーとしても残念ながら存在していない。この表現が、通訳をしてくれた方のものなのか、記者自身のものなのかはよく分からない。が…こっちも正直驚いた。」

「僕のインタビューが「授賞式で日本批判のスピーチをした」ことに変質するまで一週間もかからなかった。その数日後には「受賞スピーチでも日本は南京虐殺について中国に謝れ」と発言したことになっている。」

「正直な話、ネットで『万引き家族』に関して作品を巡ってではなく飛び交っている言葉の多くは本質からはかなり遠いと思いながら、やはりこの作品と監督である僕を現政権(とそれを支持している人々)の提示している価値観との距離で否定しようとしたり、逆に擁護しようとしたりする状況というのは、映画だけでなく、この国を覆っている「何か」を可視化するのには多少なりとも役立ったのではないかと皮肉ではなく思っている。」

「映画監督なのだから政治的な発言や行動は慎んで作品だけ作れというような提言?もネット上でいくつか頂いた」。
自身かつてはそう考えていたし、初めて参加した欧州の映画祭では核実験反対の政治的抗議行動に「戸惑った」が
「23年の間に気付いたことは、映画を撮ること、映画祭に参加すること自体が既に政治的な行為であるということだ。自分だけが安全地帯にいてニュートラルであり得るなどというのは甘えた誤解で不可能であるということだった。」

「映画祭とは、自らの存在が自明のものとしてまとっている「政治性」というものを顕在化させる空間なのである。目をそむけようが口をつぐもうが、というかその「そむけ」「つぐむ」行為自体も又、政治性とともに判断される。しかし、このようなことは映画監督に限ったことではもちろんなく、社会参加をしている人が本来持っている「政治性」に過ぎない。」

「僕は人々が「国家」とか「国益」という「大きな物語」に回収されていく状況の中で映画監督ができるのは、その「大きな物語」(右であれ左であれ)に対峙し、その物語を相対化する多様な「小さな物語」を発信し続けることであり、それが結果的にその国の文化を豊かにするのだと考えて来た…」

「映画は何かを告発するとか、メッセージ伝えるための乗り物ではない」 何かを告発するものという考え方は「〈リベラル〉と日頃呼ばれている新聞、雑誌の方が頑なである。作品から作者の何らかのメッセージを受けとり、それを拡散することが私たちの使命だと考えている人が多い。本当に厄介である。」

「作品をメッセージを運ぶ器だとしか考えない態度からは、恐らく作品を介して豊かなコミュニケーションの広がりは望めない。」

「僕は何かを誉めそやしたり批判することを目的に映画を作ったことはない。そもそもそんなものはプロパガンダに過ぎない。外国人観光客を日本に誘う為のインバウンド効果を競うわけではないので、「日本すごい」をアピールすることを目的にしたものなど、そもそも映画とは認められないし、逆に社会や政治状況の「酷さ」だけを晒そうと目論んだものは「貧困ポルノ」という言葉でやはり批判をまぬがれない。」

「『万引き家族』は喜怒哀楽の中でいうと〈怒〉の感情が中心にあったとプレスやパンフレットには書いている。だから余計に何かを告発した映画だと受け取られたのかもしれない。ただこの怒りというのは、例えばマイケル・ムーアが『華氏911』でブッシュを、スパイク・リーが今回の新作の中で展開している(らしい。未見)トランプを批判しているようなわかりやすいものではない。作品内にわかりやすく可視化されている監督のメッセージなど正直大したものではないと僕は考えている。映像は監督の意図を超えて気付かない形で「映ってしまっている」ものの方がメッセージよりも遥かに豊かで本質的だということは実感として持っている」

その次、最後の段落では比喩を交え、「映画の共同体」に関する考察と心情。一読をお勧めします。

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