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水俣病展2017 [環境]

水俣病展2017

11月に水俣市を訪れ、そのときの水俣病資料館に関する「水俣(2)」を書き終えないまま、再び熊本に飛んだ。ふるさとは遠くにありて思うものではもはやないかもしれない。思い立ったら2時間。

八景水谷みなもに映す秋しずか
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雲か山か呉か越か 水俣(1)
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気のせいか 旅の成果 徳富蘇峰・徳富蘆花 生家 水俣(3)
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「水俣病展2017」

12月1日は県立美術館分室でメモをとりながら全階、午前、午後とじっくり見て回った。 写真、映像、物の展示(漁具、チッソ本社に設置された鉄格子の一部、、)解説、水銀について、社会や産業について、医学面、事件や裁判、企業がしたこと、行政や司法や学者らがしたこと、反対運動、支援、訴訟、新聞記事の切り抜き、著作の引用、年表、患者らの悲惨、絶望、怒り、、。

2日は記録映画「水俣病ーーその20年」(1976年)(監督:土本典昭)を観る。
https://youtu.be/GBuV9wqNv74

上映のあと熊本市現代美術館の会場で文芸評論家・加藤典洋氏の講演があった。 前日のメモも整理しておきたいが、まずはこの日の講演から。

↓ ↓ ↓ ↓ ↓

評論家ながら話は滑らかではない。それがいいのかもしれない。失礼ながら滑舌よからずどもりがちで焦って話される。それでこちらも前のめりに身構えて食い入るように聞いてしまう。それを狙ってのこととも思えないのだが、聴くものを惹き付ける話ではあった。以下は私のメモから作った忘備録である。

1.土本典昭という人
2.土本と水俣との関わり
3.この映画の位置
4.「水俣病ーー患者さんの世界」(1971)とどう違う?
5.感想(と言われたか、「展望」だったか)

「水俣病ーーその20年」(1976)の監督、土本典昭は1928年生まれ。終戦の1945年には多感な17歳だった。本人も皇国少年だったと言っている。価値観の激変を経験したひとり。1946年、大学予科、早稲田。共産党入党(およそ10年後の1957年、やめている)。当時は共産党の迷走期。全学連副委員長。大学除籍。山村工作隊に入り、逮捕。映画は岩波製作所と契約し1956年から作り始めている。

同じような足跡を辿った人に網野善彦がいる。歴史家。同じく1928年生まれ。賞の候補になったり、受賞したり。しかしすべて断っている。人に働きかけ、人は死んだ。自分は栄誉を受けられない。網野は献体もしている。葬式は死後2年たって。他に読売新聞の渡辺恒夫も似た境遇だった。

1960年安保を経て土本は1961年、青の会に入る(1966年の作品に「飛べない沈黙」)。青の会には黒木和雄(1930年生まれ)、小川紳介(1935年生まれ)がいた(1967/68「日本解放戦線 三里塚」)。土本は「パルチザン前史」で新左翼・京大助手の滝田修(竹本信弘)を扱っている(1969)。作品が認められるのは土本がいちばん遅い。「水俣病患者とその世界」(1971)。

1972年、土本は「水俣病患者とその世界」をストックホルム(国連環境会議)に持って行く。1975年にはカナダに(先住民居留区で水俣病発生)。遠くの人にも分かってもらわなくてはならない。深くはないが、さほど関心のない人に見せる作品、外国に持って行って人に説明するような作品も一つ必要になった。粗っぽいところがあっても、そのような作品も必要に。それが1976年の「水俣病・その20年」。

1980年代には、小沢昭一の語りで「原発切抜帖面」。アフガニスタンに関する映画(「もうひとつのアフガニスタン カーブル日記1985年」、「在りし日のカーブル博物館 1988」、「よみがえれカレーズ」1989)。
1990年代に、水俣病患者遺族を訪ねて遺影500あまりを複写。
2005年「ひろしまのピカ」。
2008年になくなるまで水俣に関する映像作品は17作。

1971年の「水俣・患者さんとその世界」と1976年の「水俣病・その20年」は対極にある作品。前者が深く掘り下げる(垂直軸)なら後者は広く届ける(垂直軸)。後者は43分だが前者は2時間を超え、字幕も入らない。聞き取れないところが多いうえ、方言でさらにわからなくなる。ナレーション、解説がない。音楽もない。解説を入れようとする手をもう一方の手が抑えている作品。解説は最後に監督本人のものが出てくる。しかしそれはプライベートな声。

それまでの記録映画の告発調の文法を外して、そこに生きる人たちの経験、問題、出来事、全体を伝えた。問題の深さを伝えた衝撃的な名作であった。完全版は2時間40分。

一方「水俣病・その20年」(1976)は、告発調の、記録映画の文法にのっとった43分。プロのしっかりとした語り(北朝鮮のアナウンサーほどは力まないにしても)。1971年の深い名作があるのになぜこのような映画を作った。71年の「水俣・患者さんとその世界」は深い作品。深く見ないと人に伝えられない。石牟礼道子もそういう仕事をした。土本もそのような映画を作った。

石牟礼の「苦海浄土」(1969)はしゃぼん玉の内側から見るとこうである、という作品。「暮らしの中で生きられている出来事の姿」(水俣病資料館館長)。「水俣・患者さんとその世界」(1971)もそう。

しかし、言葉で表現し、遠くまで伝えることもしなくてはならない。内在(深さ)と関係(広がり)の両方が必要。「深く」と「広く」。「心で」と「頭で」。両方ないと遠くまで伝わらない。

世代継承も難しい。ジャンジャック・ルソーの「社会契約論」。人が集まり、代表として権利を委ねられ、社会を作ろう、国を作ろうということになった、という仮説。一つの盲点は、社会や国は親たちがそうやって作ったものとしても、子供たちは相談を受けていない、ということ。そんな社会契約をどう伝えて行くか。ルソーの草稿にはその問題も出て来ているが解決できず、隠した。既存の宗教や教育だけでは足りない。新しい市民宗教が必要とあった。それに近いのが国家神道という人もいる。ルソーを師と仰ぐロベスピエールが行なった「革命の祭典」もそのひとつ。最後はギロチンが出て来たが。

チッソは、世界の他の所でも同じようなことやっているのに、なぜ水俣にだけこんな問題が起きる、自分たちが原因であるはずはない、と考えた。水銀は拡散し希釈化すると。しかし不知火海は島に囲まれた内海。そのことを「水俣病・その20年」(1976)はまず説明する。この作品は、1)水俣病がどんな病気か、2)行政、国、県の態度がどんなに理不尽なものだったか、3)患者らの怒りがどんなに大きなものであったか、を描いている。

土本は水俣病展と関わった。実川悠太(水俣フォーラム理事長)「誰も(患者らを)助けることなどできない」。それはハンストをして監禁されている(韓国の詩人)金芝河を「助けよう」と鶴見俊輔が韓国に行った時の話(小田実はビザが下りなかった)に通じる。金は英語は得意ではないのだがこう言った。Your movement cannot help me. But I will add my name to it to help your movement. これと同じ意味において「助けることはできない」。そしてそれと同じで、水俣病問題と関わるということは、自分が助けられるということだ。

それまで人はたらいの水の中にいる金魚をつかんでその金魚だけを見せようとした。たらいの水の中の金魚というその全体を描いて見せたのは石牟礼道子が初めて。網元の娘・杉本栄子は2008年に亡くなったが、亡くなる前、1,000人の聴衆を前に話をした。しかし、チッソはひどい、という話はしない。自分たちがいかに苦しいかという話もしない。おにぎりの話をした。運動会で子供達のためにおにぎりをつくる。しかしちゃんと握れない。ぼろぼろご飯がこぼれる。子供達が食べようとすると、またご飯がぼろぼろこぼれる。しかし子供たちはお母さんの作った握り飯はおいしかったと言ってくれた。この話を聞いて、町の人たちは初めて「何か私たちにできることはありませんか」と言った。初めて交流が始まった。そんな暮らしの中の人々を描いたのが71年の作品だ。

1965年、水俣で撮影したが患者家族から言われる。「なして撮るか。撮ったっちゃいっちょんようならんばいこの子の体は。人を見世物にして」。その言葉が突き刺さった。自分は「撮り逃げ」ではないか。そして水俣に住み込んで撮ったのが「水俣・患者さんとその世界」(1971)。

新左翼、水俣病、アフガニスタン、原発、広島を扱ってきた土本。存命なら福島の原発事故と水俣病をつなぐ作品を作っただろう。そして土本を接点に、石牟礼道子とスベトラーナ・アレクシェーヴィッチがつながったはず。

アレクシェーヴィッチ(ベラルーシ)の「チェルノブイリの祈り」(1997)は、国家のために頑張ってきた国民が国家から見捨てられる話。しかし、日本のほうがひどい所、たくさんある。「セカンドハンドの時代」(2006)は共産主義の時代を生き抜いた人々の聞き書き(アフガン帰還兵も出てくる)この2作でノーベル賞を受賞。スベトラーナ・アレクシェーヴィッチと石牟礼道子の対談を撮れたかもしれない。

アレクシェーヴィッチの広がり。80年にわたってソビエトのために尽くしてきたのにその国家は崩壊し、マフィアみたいなのが現れ、社会が壊れる。その中を生きて来た80人の聞き書き。この会場の聴衆は、若者もちらほらおられるが、ほとんどが高齢者。水俣を先々もっと伝えて行くためには大きな広がりの中に水俣病、事件、出来事、経験を置く必要がある。そして土本典昭の映画ともう一度出会う必要がある。土本においては、原発、広島、共産主義、アジア、アフガニスタンーーその中に水俣がある。

石牟礼道子も水俣以外のものを読む必要がある。たとえば「西南役伝説」。これは熊本を主戦場として戦われた10年戦争(1877)。佐賀では佐賀の乱(1874)。江藤新平は晒し首になった。熊本では神風連の乱(1876)も起きた。熊本の横井小楠というのは大人物。福沢諭吉に匹敵するような人。明治2年に早々と死んだのは非常に残念。そして熊本の洋学校からは熊本バンドという過激な集団も出てきた。

遡れば島原から天草では島原の乱という江戸時代最大の乱があり、これに懲りて家光の時代から鎖国が始まったわけだし、西南の役と言えば、明治時代最大の乱。熊本バンドはキリスト教の過激な集団。神風連は尊王攘夷。この地には普通の人たちが権力へ抵抗するという伝統が脈々と生きており、それが水俣にも繋がっている。その点、明治時代にも、そして今また原発事故で過酷な目にあっている会津との違いが顕著である。

水俣はこれから位置付けを見直し、より広く捉え直し、人は自己変容してもっと強くならなくてはならない。

https://youtu.be/GBuV9wqNv74
「水俣病ーーその20年」(1976年)(監督:土本典昭)
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八景水谷みなもに映す秋しずか
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水俣病資料館 水俣(2)(工事中)
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今回の熊本:

悪態の価格 手前の太道 再び熊本へ
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水俣病展2017(2)
(工事中)


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